主日礼拝メッセージ録画(Youtube)
5月12日のメッセージ
https://youtu.be/LT8W6WYL2NQ?si=yTnWFuEGnqxr2h8s
5月19日ペンテコステ礼拝
https://www.youtube.com/watch?v=FAty7N6eyiE
またはYouTubeで
kunio miyoshi
で検索をお願いいたします。
新たなチャレンジは私たちの原動力です。
より良い礼拝を行うことが喜びであり、
楽しくも真剣に取り組んでいます。
現在はYouTubeでのメッセージ送信に変更されています。
2021年12月5日礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイ1:1
◆イエス・キリストの系図
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
メッセージ本文
今はアドベントの最中、アドベント第二週になります。
それで山上の説教からこの一か月は離れ、イエス様の誕生に関するメッセージをします。第一週は岡先生がしてくださいました。インマヌエル、神はともにおられるというメッセージでしたね。
わたしは聖書箇所としては前にもどり、マタイの福音書1章。あの有名で、読むことさえ避けたいイエス様の系図についてメッセージします。
大概の方は、聖書を読もうとするときマタイによる福音書から始めます。
そして第一章、イエスの系図というところでいきなり挫折します。もう聖書は読みたくない。聖書はつまらないと思ってしまうのです。たしかにイエスの系図を私たちが読むと、いろいろな知らない人の名前ばかりが続きます。意味がわかりません。第一、その名前は読みにくい名前ばかりです。こんなことをマタイはなぜ福音書のはじめにかいたのでしょうか。
なぜですか?
みなさんは洗礼を受けたときの喜びを覚えていますか?多くの受洗者が洗礼を受けると大変祝福されたという思いが溢れます。喜びに溢れます。ああ、いろいろ受洗前は心配したけれど、洗礼を受けてやっぱり良かった。うれしくてしょうがない。この喜びを誰かに伝えたい。教会の仲間、家族、友人知人、いや道行くまったくの赤の他人でも知らせたい。「イエス様はいいですよ、しんじましょう」と伝道の気持ちでいっぱいになります。
マタイによる福音書の記者、マタイもそうでした。福音書は人を使って神さまが書いたので、著者は神様、筆記者、記者はマタイ、それでマタイの福音書の記者はマタイというふうに呼ばれます。そのマタイは取税人でした。当時の取税人は嫌われていました。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』」(マタイ9・10~11)
取税人という職業は、ユダヤ人から「罪人」と並べられるほど、蔑まれていました。なぜなら取税人たちは、ローマ帝国のために同胞のユダヤ人から税金を取り立てていたからです。つまり、ローマ人の手先と軽蔑されたのです。取税人の仕事は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人たちから取り立てることです。税金には、収入に対する税金(所得税)や財産に関する税金(住民税)、通行税など、さまざまなものがありました。税金を集める仕事は、その地域の総督に与えられていましたが、実際には、税金を集める〝収税人”を現地で募集し、入札でいちばん高い値段をつけた人に取税人の権利を与え、集めさせました。取税人としての給与は、ローマ帝国から支払われるわけではなく、その分も含めて、ユダヤ人たちから徴税するというシステムでした。
つまり、取税人の権利を買った人は、指定された期日までに、指定された税金をローマ帝国に納めなければいけませんが、そのためにユダヤ人たちからどのくらい税金を取り立てるのかは、取税人自身に任されていたのです。ローマに納める金額は決まっているため、たくさん取り立てれば、その分、取税人たちの収入が増えるということです。当時のユダヤ人たちにとって、神の民である自分たちが、異邦人(外国人)であるローマ人に支配されていること自体、受け入れがたいことでした。取税人は敵の手先であるだけでなく、自分の利益を得るために高い税金を課しました。さらに用心棒としてローマ兵をやとって、それで徴収に行きました。その分も税金に含まれます。どれだけ高い税金になったことでしょう。以前にも解説しましたが、税金の払えない人には子供や家族を奴隷に売らせてまで税金を支払わせました。だからたいへん同胞のユダヤ人から嫌われていたわけです。
マタイは取税人でした。本人がまじめで、仕事をまじめにしても、このような取税人の制度ですからまわりから大変嫌われていました。お金や財産はたくさんあったでしょう。しかし孤独です。人に嫌われた人生です。その彼がイエス様にあってその状況から救い出されました。イエス様を信じて、ローマの手先はやめて、イエス様に従ったのです。私たちがイエス様を信じて、洗礼を受けたときと同じように喜びに溢れました。この喜びは自分だけのものではない、他の人にも伝えよう。つらい思いをしている人に伝えようとした信仰心が神様に用いられてマタイによる福音書を記者として書いたのです。
だからマタイによる福音書は「イエス様はすばらしい。イエス様は苦難から救い出してくださる方、メシアです。信じて従うと祝福され、喜びに溢れる、あなたもどうですか。信じましょう」というイエス様をお証する書物なのです。
だれにイエス様をお証したでしょうか?
まずはユダヤ人です。それがこのマタイによる福音書1章のイエスの系図です。イエスのこの系図によって旧約聖書で約束されたメシアがイエス様であるこの証しとなります。
その次に第二章で占星術師、あるいは東方の三博士の記述で異邦人への福音の伝道、つまりユダヤ人以外の世界に向かっての救い主メシアということを証ししています。メシア誕生を知らせる星をみて東の国から博士が三人来ますでしょう。そして家畜小屋でお生まれになったイエス様に三つの宝物をもってあいさつにいきますね、まあ、あれは礼拝ですね。そして3章以降でイエス様のご活躍が記載されます。このようにマタイによる福音書はイエス様がメシアであることを証しする書物です。
さて今日の聖書箇所を見てみましょう。
マタイによる福音書はまずユダヤ人にイエス様がメシアだと証しする系図を書きました。
さてお聞きします。メシアとはなにか?
ヘブライ語のマーシーアハ(メシア)とそれに相当するギリシャ語クリストス(キリスト)は,どちらも「油そそがれた者」という意味です。よって,「イエス・キリスト」は「油そそがれた者イエス」または「メシアなるイエス」という意味になります。
聖書時代には大抵,特別な立場に任命される人は,頭に油を注がれました。(レビ記 8:12。サムエル第一 16:13)神様はイエス様をメシアという権威ある立場に任命しました。(使徒 2:36)しかし,イエス様には実際の油ではなく,聖霊によって任命しました。(マタイ 3:16)
念のため、父なる神様も神様、イエス様も神様、聖霊も神様、そして三人の神様ではなく三つの面をもつ一人の神様です。これを三位一体と言います。
誰にも、正確には説明も理解もできない神秘な神様として記憶してください。
さて話を戻ります。
ユダヤ人は、系図を大切にしました。理由のひとつには、ユダヤ人は国が滅びたいきさつからです。(バビロン捕囚)
それは混血婚により異国の宗教がユダヤに入り、真の神をないがしろにしたからだ、と理解しました。
だから宗教がみだれぬようにユダヤ人の血の純潔を厳しくしました。(エズラ記)たとえば捕囚後、国に戻っても家系図がなければレビは祭司職になれませんでした。そのくらいユダヤ人として正しい血筋であると示す家系図を大切にしました。だからイエス様が、メシヤである証しを系図でマタイは証ししたのです。
もう一つは旧約聖書の記述にある油注がれた者、メシアであることを旧約聖書と実際のイエス様を照らしあわせて、証ししました。とくに神の御子は油ではなく聖霊が注がれます。
創世記22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
マタイ1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
創世記17:19 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。
マタイ1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
創世記49:10
王笏(おうしゃく)はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
マタイ1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
ダビデの子孫
イザヤ書9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
処女降誕の証し
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
誕生地の証し
5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
このようにマタイは系図とイエス様のエピソードと旧約聖書の記述との一致を記して、イエス様こそまことの神の子救い主、メシアと証ししています。
その動機は、裕福であっても平安が得られない自分の人生に、まことのメシアとの出会いの喜び、人々の偏見の奴隷からの開放という喜びがあったからです。そしてそれを他の人にも伝えたかったからです。
あなたも洗礼の喜びを思い起こし、クリスマスにむかって今一度、自分の信仰の恵みを思い起こしましょう。
(お祈り)
文字原稿のメッセージ掲載は、現在、お休みしております。
上記、YouTubeでご覧ください。
どうぞよろしくお願い致します。
2021年10月17日礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイ5:9~1
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
メッセージ
今月は山上の説教を続けております。
山上の説教をこうして聞くと、私たちが信仰を持つとどのように日々作り変えられていくかがわかります。
多くの人が良い人になりたいという思いで信仰を求め、信仰生活をおくっています。
牧師は私たちが罪人であり、イエス様の死と復活、私たちがこれを信じれば罪が赦されることを強調します。
しかしほとんどの信仰者は罪の救いではなく、罪の生活、いやなところとのある自分に気づき、それを直したいと願っています。良い人になりたい、良い人生を送りたい、そこが大切だとこころの底で思っています。
イエス様は罪の救いという福音と共に罪な無い生き方の指針を教えてくださっています。
律法学者は今やいません。律法に苦しめられていた時の救いと生活苦で大変な思い、子育てや子供の学費であれこれ悩んでいる現代にも通じる教えをイエス様は教えています。
ここではきちんと律法学者がいない今に通じるイエス様の教えを皆様とともに分かち合いたいと願っています。ですからぜひ新鮮な気持ちで聞いてください。
祈りもそうです。
私たちは「自分の願いや苦労を何とかしてほしい」と願います。
しかし私たちが願う前からイエス様はそれをすべて、隅から隅までご存じです。
そのうえにたって、あなたが祈るときどのような目的で、どのような内容で祈ると良いかをイエス様が教えてくださっています。先週までは祈るときの心構えです。今からは実践です。
さて私たちの祈りの対象は、父なる神さまという人格のあるお方です。
誰かがあなたのところに来て、なんども名前を繰り返したり、別人の名前を呼んだり、同じ内容をくどくど繰り返したりしたら変でしょう。
同じように、神に対しても、ただしく礼儀をわきまえて、知性と感情を持って祈らなければなりません。また、先ほども申し上げた通りイエス様は、父なる神様が私たちの必要を、私たちが願う前にすでに知っておられる、と話されています。ここに、祈りについての根本的な教えがあります。祈りは単に、私たちの願いが実現されるための手段ではありません。神はもうすでに、私たちの必要はご存じなのです。それでは一体なんのために祈るのでしょうか。
それが主の祈りに示されています。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
交通事故で大切な人が病院に担ぎ込まれました。警察からの電話であなたは急いで病院に駆けつけました。もう愛する人、子供、親、友人は手術の真っ最中です。手術が終わるまであなたはロビーで待つよりほかありません。そのとき誰でもが祈ります。だれに祈るのでしょうか?
信仰の無い人でも神様どうぞ助けてくださいと祈ります。だれに祈っているのでしょうか?私たちは違います、イエス様に、天におられる偶像ではない本当の神様にはっきりと祈ることができます。あなたの祈りを聞いてくださる方をあなたは知っています。だからはっきりと呼べる特権があるのです。
「天にいますイエス様の父なる神様」とです。そして生きて私たちの祈りを聞かれる神様を感謝してたたえるのが、「御名があがめられますように」という表現なのです。お祈りの対象が示すことができ、そしてそれは尊敬と感謝が表されるのです。そこで何が対象であるかは大事です。二千年前はいろいろな宗教があり、偶像崇拝に満ちていました。神様もどきはたくさんあったので、本当の神様への信仰表現でした。しかし現代で考えるなら恋人に「好きよ」といわれて有頂天になるかもしれませんが、その心があなたじゃないはあなたの財布が厚くて重くて、それが好きよ、というのであればがっかりです。だれに
祈っているのか、それは信仰の正しさの表明になり必要なことですとイエス様は教えてくださりました。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
御国とは神様がご支配する国です。世の中です。悪い奴が罰も受けないで良い思いをしている社会をあなたは望むでしょうか?そんなことはないはずです。
正しく生きれば、それに見合った幸せな生活が送れる。戦争など心配しなくてよい世の中、この当たり前があたりまえでないのが今の世の中です。だから愛の神様がしっかり管理していただいて愛のあふれる世の中で過ごしたいと祈り願うのです。天におけるようには、まだ地上では実現できていません。神様がいないから戦争が起きるのではなくて、人の命で儲けるような悪魔の心の人がいるからというのが本当ではないでしょうか。イエス様が家畜小屋でお生まれになったときから天の御国が地上でもはじまりました。しかし100人のうち一人しかイエス様を信じていない世の中、お金が一番信じられる世の中が現実です。それは天の御国ではないですね。イエス様、本当の愛が信じられる世の中を早く実現したいものです。そのことを願う祈りですね。ここも神様への祖運慶と感謝の念があります。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
当時は本当に食料をお祈りしたでしょう。
出エジプト記
◆マナ
16:1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
16:2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
16:5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
16:6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、
16:7 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
16:8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
16:9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、
16:10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
16:11 主はモーセに仰せになった。
16:12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
16:15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
このように旧約聖書の出エジプト記にあります。
しかし今は新約聖書の時代です。
イエス様は日ごとの糧を特に、
マタイ4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
と教えてくださいました。
聖書を読むのが大変だと思うのは義務感で読むからです。毎日ご飯をいただける幸いなように毎日聖書を読めるのは幸いなことです。
新約聖書がラテン語からドイツ語や英語に翻訳されたとき、神の言葉を冒涜したと何百人もの聖書学者や今でいう牧師が火あぶるで殺されました。今、私たちがわりと簡単に聖書が手に入り、読めるのは活版印刷の発明も必要でしたが、それ以上に尊い犠牲があったからです。日々、聖書を読めるのは神様の恵みであり、人の犠牲の上に与えられた権利なのです。それを感謝する祈りでもあります。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
これは私たちにとってどういうことでしょうか?
信仰があれば罪が赦される、そうでしたね。
私たちの負い目とはなんでしょうか?神への不信仰、反逆や反抗心です。
信仰があっても、やはり自分を吟味すれば、完全な信仰とはいえないこころのゆがみがあります。信仰があればこそ、その心の歪み、完全な信仰をもてない歯がゆさを感じるのではないでしょうか。罪赦された身であるからこそ、日々の生活の中で神様を忘れる現実があります。それを聖霊が満たしてくださり、イエス様の心を心としてくださいますが、それまでの神様に対する負い目を感じるならば、あなたは正しい信仰を求めています。だから神様にすがる思いがここです。そして今なおある自分の罪とその赦しを願うだけでなく、自分の罪を赦されるように、実際に他人を赦そうとする心と行動に現れます。しかし本当に他人の自分に対する嫌がらせや不当な扱いを赦すには神さまから愛をいただかなければ無理です。できません。それを願う祈りです。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
誘惑は制御できない欲望です。これは厄介です。服や手足についたコールタールを思い起こしてください、なかなかきれいには落ちません。傲慢な人はたとえ自分で反省しても、人を見下す快感を忘れられません。わかっていても、やってしまうのです。だから神様に良い生き方、きよい人生が送れるように願うのです。神様は願う前から知っています。しかし当事者である自分が願い求めなければ、せっかく差し出されている神様の救いの手を握り締められないのです。悪い者の誘惑も災難もすべて神様が盾になって守ってくださらなければ逃れられないのです。悪い者が悪人なら逃げやすいかもしれません。
内の父が母がいるのに会社で浮気をしようとしました。美しい女性という誘惑に負けたのです。だからこの女性はわたしの両親からみて悪い者でしょう。しかしこの女性はまったく浮気をしようとは思いませんでした。神様から見て良い者でした。悪い者とはそうそう単純ではありません。誘惑や管理できない欲望があるなら善人でさえ、欲望が悪人に変わります。こうなると人の知恵では守れません。神様の清い心いただかなければなりません。神様の救いの手をしっかり握りしめる意思を現わした祈りと言えます。
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
これも人間である自分にはできないことです。自分の過ちならあっさり赦すような自己中心の心ならあります。
今、高いお金を払ってあなたが手に入れた花瓶があります。他人が不注意でこわしたなら、あなたは頭にきます。自分が壊したなら、もったいないことをしたと思うでしょうが、また買えばよいと考えて自分をあっさり赦すでしょう。
自分の自己中心の心をきよめてくださいという祈りとわかります。
また他人を赦せないのが普通です。しかしそれでは神様は赦さないことを示す祈りとも言えます。クリスチャンは普通ではないほどに信仰を持ち、きよめられなければいけないことを教えてくださっています。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
これも人を赦せないのが普通です。だから神様から許されません。
神様の赦しを得るのは信仰義認だけです。人の努力ではどうにもならないのです。
主の祈りは最初が頌栄、神様をたたえ感謝する祈りです。つまり神様と自分の関係をあきらかにする祈りです。次は神様と社会。そして自分への恵みのための祈りです。最後が自分と他の人との関係改善を神様に祈るという祈りです。
このように祈りとは長々と祈るのではなく、まず誰に祈るのか、主なる神ですね。それから尊敬と感謝、この世に神様のご支配する社会になるように祈ります。そして神さまと自分、そして他人と自分、そして罪の赦しへつながる祈りです。
祈るとき、心のままに祈ってよいのですが、イエス様がこう祈りなさいとせっかく祈りの仕方を教えてくださったのですから、私たちも以上なようなポイントを忘れずにして、毎回全部網羅しなくても良いので、主の祈りを模範としたお祈りを祈るべきです。
お祈りいたします。
以上
。
2021年11月21日礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイ6:25
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
メッセージ本文
山上の説教で「外見より、まず中身を整える大切さ」をイエス様はお話になりました。そしてその中身は神様に喜ばれるような神様にあっての富のお話をされました。そして今日の聖書箇所です。唐突に「思い悩むな」です。
イエス様は箇条書きのようにこのようなお話をしたのでしょうか?
その1,その2,その3というようにです。表面の文字だけを読むとそのように受け取れます。しかし祈りにしろ、施しにしろ、自分の評価をあげるためではなく、真心からの行いの大切さ、それによって神様から評価を受けるような人は、そのよき信仰ゆえに神さまがその人の信仰生活に励ましをなさいます。
それが今日の聖書箇所です。
自分の富を地上の金銭ではなく、よき行いを通して神様の身元に信仰の実として蓄える人、なによりも大切なものとして神様をあがめる人に神様は「思い悩むな」と言います。山上の説教を聞いている人は、思い出してください。町を離れてイエス様の後を追い、山を登ると言う苦労を厭わずにイエス様に従った人です。そういう人が八福の祝福を受け、さらに天国の住人としてふさわしいようにイエス様が導きます。そのなかでの今日のお話です。そしてそれはみなさんの事です。日曜日の朝、仕事の疲れや学校での勉強の疲れを癒したい。もっと寝ていたい。ゆっくり休んでいたい、という気持ちに打ち勝って、こうして礼拝に来ています。そういうあなたです。
イエス様は言います。
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
大切なのは、食べ物ではなく、ましてや衣服ではないというのです。たしかに私たちは「おいしい食べ物」や空腹なら「いそいで食べられるもの」を探します。食べ物に関心があるからです。またあのひとはセンスが良いとか、評価します。また自分も今日は会社になにを着ていこうか、学校になにを着ていこうか考えます。着るものに関心があるからです。でも、それが一番たいせつではないことを知っています。
なんでしょうか? お金? という答えをイエス様はすでに否定しましたね。
いや、イエス様はそういうけど、お金がないなら食べ物も買えないじゃないか。衣服がみっともないと周りから軽蔑されるじゃないか。そういうかもしれません。しかしイエス様は 食べものとか衣服とか、もちろんそれらも大切でしょうがもっと一番大切なものがあります。それは「いのち」といういうのです。
聖書がいう「いのち」とは神様がただ動物としていきる命以上の特別ないのちです。神さまのかたちとしていきられる命です。そしてそれは罪ある人が信仰によって罪なしとされた命です。十字架でイエス様がその命をおとしてでまで与えてくださったきよい命です。
それなのに「食べ物や衣服」で悩む信仰生活なら、それはいけないと叱責します。
創造者なる神があなたを生み出し、生かしてくださっています。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
ここのソロモンとはあのイスラエルという国を建国したダビデの息子のことです。ダビデ王をついでイスラエルの王になったソロモン王のことです。ソロモン王はダビデが建国したイスラエルを本格的な政治と組織のある国にしました。その領土も軍事力も強大になりました。イスラエルの歴史の中でもっともすぐれた王と呼ばれています。そのソロモンでさえ、神のおつくりになったささいな花のすばらしさには勝てないのです。神がおつくりになった野の草も、人々から十とばれなくても立派に生きています。人は創造されたとき神様はとてもよいものだとお喜びになるほどでした。ほかの生き物には神様はそうおっしゃいませんでした。人は特別な存在なのです。神様がたいせつにする存在なのです。
さてここで質問します。
なぜ思い悩むのでしょうか?どういう人が思い悩むのでしょうか?
神が私たちを愛して、そのいのちさえ捨てて私たちの罪を贖ってくださいました。命を人にささげたといってよいでしょう。その神は私たちの必要なものを知り、日ごとの糧を与えてくださっています。信仰があるもにおなら私たちは神様によって生かされていることを知っています。だから神様への信仰があり、それゆえ生かされている自分であることを知っていて、感謝しているなら食べもものが無くて死んでしまうなどと心配しないでしょう。心配するのは自分をたすけてくださる神を信頼しないからです。つまり悩みは不信仰の証しなのです。と、この聖書箇所は言っています。
このことを理解するには、先日わたしが岩沼合同礼拝でメッセージした内容をしっていた方がよいでしょう。
それは先日、塩釜ともしびチャペルでメッセージした続きとなります。岩沼でメッセージしたので塩釜ともしびチャペルでは当分お話するつもりではなかったのですが、やはりどうしても必要なので今日、ここでお話します。
それは善きサマリヤ人のお話です。エリコからエルサレムに向かう途中に事件が起きました。追剥です。そのけが人のことに祭司とレビ人が気が付きますが、さきを急ぎ立ち去ってしまいます。その後からユダヤ人、イスラエル人に嫌われているサマリヤ人が通りがかります。傷をその場で治療しただけでなく、自分がのるはずのロバにそのけが人をのでます。けが人が休むための宿につれていきます。今必要な宿賃を払いますが、そればかりでなく帰りにもう一度その宿に寄り、さらに必要になった宿賃や費用を支払うと約束します。
イエス様は、このたとえ話でなにをメッセージしたのでしょうか?
それは同胞や家族などを越えて、困っている人がいたら助けなさい、心で思うだけでなく、実行しなさいということを教えていますね。二番目には、祭司につづきレビ人が登場することから、礼拝にむかう途中の祭司とレビ人と推察できます。いまでいう牧師と礼拝司会者にそうとうするでしょう。つまり礼拝に牧師と司会者が急ぎ向かうところで強盗にあった人を見つけたと思います。その牧師と司会者は大切な神様への礼拝だから、遅れたり欠席するわけにはいかないと、そのけが人をさらに後から来る人があるだろう。その人に任せたと言う風にわかります。じじつサマリヤ人が祭司とレビ人の後に来て、その強盗に襲われた人を介抱します。この祭司もレビ人もたんに薄情な人ととらえるのではなく、けが人を介抱しないのはそれなりの事情があったわけです。しかしイエス様はいわゆる分別やそれぞれ事情があってもそれを越えた神の愛でそのけが人、困窮者を助けてあげなさいというメッセージがあります。しかしこの自分の分別を越えて助ける場合は、イエス様にあってということが大切であると先回もお話しましたね。悪魔は聖書の御言葉さえ誘惑の言葉に置き換えます。だから要注意です。
そしてここからは岩沼合同礼拝でお話したところとなります。
当時、イエス様はサマリア人のようだとけなされていました。サマリア人はユダヤ人の嫌う人々だったのです。それにはユダヤ人がエルサレムに神殿建設をするときに妨害されたりした歴史がります。また信仰もユダヤ人には異端の信仰だったのです。またユダヤ人の嫌う国際結婚、混血だったのです。これは今の日本では許されない差別ですね。でも当時のユダヤではそれが正しいとういう常識でした。そのような汚らわしいサマリア人のようだイエス様は呼ばれていました。たとえばヨハネにこうあります。
ヨハネ8:48
ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
だから善いサマリア人の話のサマリア人をイエス様におきかえるとどうなるでしょうか?
本来、傷ついた人や困窮者をたすけるはずの人々に見放された絶望のどん底の人がいます。だれも助けませんが、そのような人をイエス様は見過ごさず、手を差し伸べ、傷をいやします。自分がのるはずのロバ、エルサレムへの登場のときイエス様はなんに乗っていましたか?
ロバですね。その自分がのるはずのロバで傷ついた人をのせ、安息の場所、宿に送り届けます。それでおしまいではなくて、最後まで、とことん未来まで面倒を見ます。そして傷ついた人とはあなたです。あなたのことを家族も友達もみんなみすててもイエス様は見捨てはしません。いつでも、いつまでもあなたのそばにいてあなたの重荷をおぶってくださるのです。それが善きサマリア人の最後の、そして信仰的メッセージです。
それがわかるとあなたにたいして「思い煩うな」イエス様を信じ信頼する信仰があれば「思い煩う必要はない」とまたいの6章はいっているのです。
そしてそれでも「思い煩い」をひきずるようなら、信仰が薄いのです。信仰をしっかり持ちなさい。ぬるいお湯ではなく、しっかり熱い熱湯ほどの信仰を持ちなさい。二人の主人に仕えるようなあいまいな信仰を叱責しているのです。思い煩わない信仰もまた天に富を積むことなのです。
お祈りいたします。
10月10日礼拝メッセージ
Προσέχετε(Prosechete:船の方向を注意しろ→「気をつけなさい。わたしの道から離れないで、とどまっていなさい。」)
テーマ「偽善者のようにではなく」
聖書箇所 マタイ6:1~8
◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
本文
おはようございます。
お祈り
今日は山上の説教 マタイによる福音書6章1節から8節までを分かち合います。
9節以降も含めたいところですが、主の祈りは重要なので、次回そこに絞って分かち合います。今日はその主の祈りに入る心構えともいうべきところを皆様とともに分かち合います。
さて、6:1に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とあります。
この「注意しなさい」とは船の船頭の業界用語が使われています。それは船の方向をまちがえないように中止しろという警告の言葉です。ここではイエス様が私たちの人生のあり方や、日々の信仰生活の指針を誤らないようにしなさいとみちびいてくださっています。もちろん当時はファリサイ派や律法学者への批判の意味もあるでしょうが、現在の私たちの信仰生活の在り方について、とくに心の問題を言っています。
わたしたちは一人としておなじではありません。双子でも同じです。生活環境もそれぞれが負っている問題や重荷も違います。一律に「こうしなさい」という律法ではうまくゆかないのです。イエス様は、そして私たちのホーリネス信仰もおなじです。こころの動機、あり方が大切であり、イエス様の律法とは「心のきざまれるもの」つまり心の在り方です。
マタイ6:1は、わたしたちの良い行いを頭から非難すると言う意味ではなく、良いことをするにもそれは何のためですか?ということです。
人に見せて自分は偉いのだと見栄をはるためですか?聖書の言う善行が、そうではないことは誰でもわかります。困っている隣人を助けるために善行をするのですか? そうともいえますが、そこにとどまっていては間違った方向に行きそうです。そこで「注意しなさい」なのです。
たとえをお話ししましょう。
今、お金に困っている詐欺師がいます。彼をたすけるために、お金の受け渡しをしました。詐欺師は助かったと感謝の言葉をあなたにかけます。これは善行ですか?違いますね。法律用語なら共犯になります。しかし信仰ということから考えると「神様の目にただしくないから」です。クリスチャンはここを大切にしましょう。日本の法律、刑法はやった犯罪について処罰する法律です。しかし今まで学んだように神様の律法は、犯罪を犯す前に警告して、心を正しくし、犯罪を犯させないようにします。この心を正すところに力を入れます。そうすれば真にあなたはまっとうな人間として祝福された人生を送れるのです。そうです。祝福された人生は神の前で正しい行いをすること、そしてそれ以前に神様の前で正しい心になることなのです。だから人前で正しことではなく、神様の前で正しいことです。
今、悪い政治家がいます。秘書を使ってわいろで選挙の票を集めました。選挙に当選した悪い政治家は秘書を呼んで「よくやった」と褒めました。たとえ褒められたとしても悪いことですね。「人前で善行をするな」という教えは「謙遜な態度」「謙虚な生き方」を単におしえているのではなく、永遠にそして絶対的にただしいお方、神様から「よくやった」と言われることが大切で、「良いことも悪いことも、その基準がぐらぐらするような人間の目で「よくやった」ではないのです。創世記3章にあるように「善悪の知識の実」をたべた人間は罪人になりました。善悪の知識はあるけど管理ができないのです。そのような人の評価はあやしいものです。謙遜であるとともに神様の御前で正しい生き方としての善行に励みましょう。このイエス様のお話は山上の説教で話されたことです。つまりこの神様の御前で善行を行う人は天国の住人になる人です。
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
私たちは信仰を持ってイエス様を信じています。だから天国に行けます。しかしイエス様はそのような祝福された八福をいただいたものこそ、その道をはずれないように「注意しなさい」と言っているのが6章1節です。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
これは当時のファリサイ派や律法学者を批判してイエス様が言われた言葉です。彼は実際に自分が立派な信仰者であることを示すために、また歴史的事実として人々の評判を得たいためにラッパを実際に鳴らしてから祈りや施しをしていました。この祈りは神様に捧げるためでなく、神様を利用して自分のために祈る姿です。これはだめです。しかしここも心の問題です。
救世軍がクリスマスが近づくと銀座の四丁目の交差点でラッパや太鼓をならして年末の朴院活動をしています。これは心のなかが神様の僕としての心だから良いのです。自分が賞賛されるためではなく、一つは伝道のため、また一つは年末に食事にさえ困った人々に温かい食事を、また寒い季節を耐えるための服をプレゼントするための募金です。見た目は人前でラッパをならしてこれ見よがしに祈るファリサイ派や律法学者にそっくりかもしれませんが、心の動機、あり方が全く違います。救世軍のこの方々は天国に行くにふさわしい方々であり、神様の「よくやった」という賞賛に値する活動です。ファリサイ派や律法学者は、当時すでに社会的地位や名誉を受けていました。心は自己中心の我欲のための祈りでは世俗の報いしか受けられないとイエス様は教えています。
聖書箇所を続けましょう。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
さて今、歴史的事実としてと言いましたが、わたしたちにも当てはまります。聖会や教団の年会などで皆さんを代表して祈るような場面を思いおこしてください。私は至らない弱い人間だな、と認識させられます。自分の祈りがまわりの人にどう映っているか気にしながらお祈りをしてしまいます。そこには神様への祈りではなく、自分の良い評価を他の人から得たいと言う思いが強くあります。心がみだれている自分が、事実あります。イエス様の教えは今も生きています。昔話ではけっしてありません。この教会の献金も封筒が用意されています。神様にたいしてあなたの思いのままに捧げればよいのです。それを配慮して封筒が受付に用意されています。献金は捧げものです。けっして施しではありませんが、イエス様の教えは箇条書きのルールではなく、それぞれのケースやご事情にあわせて適応するものです。これをキリスト用語で現実適応と言います。
右の手ですることを、自分自身で気が付かないはずはありません。左手に教えるか否かというのは明らかなたとえです。右の手と左の手というほど近い間柄の人でも、わざわざ、あるいはわざとあなたのしている施しや献金、ご奉仕は見せびらかすものではないということです。見せびらかしてはいけないという意味にとどまらず、見せびらかすときの心は神様があなたの主人ではなく、あなたの虚栄心が主人となっています。そこがとくに気をつけたいところです。気をつけていれば、かえってあなたはまわりの人から素晴らしい人、神様の清らかな光を映す人として見られます。
聖書箇所を続けましょう。
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
私たちは、この教えは守りやすい楽な教えです。
私たちは祈りをはずかしいと思いがちです。
はい、そこのなになにさん、たって皆さんの前で神様への感謝を祈ってください。そう言われるとすごくはずかしいです。たとえです。クリスチャン同士がランチを食べに外にでました。お店に入って食事が前にでました。食前のお祈りをします。いつでも、どこでもお祈りをすることに慣れていないと、すごくはずかしく感じることがあります。周りへあまり大きな声で祈ると迷惑をおかけする、という理由はあります。しかしそれ以上に「はずかしい」という気持ちでいっぱいならば、その祈りはすでにあなた自身にむけた他人の評価があなたを支配して、他人の評価が言ってみれば主人となった祈りになっています。小声で祈ることが問題ではなく、人の評価が心の中でいっぱいのいのりだから問題なのです。
朝のデボーションの時間などは、教会での公同の祈りとは違って、人に見られないような場所や部屋で祈りなさい。他人の評価などきにしない環境に自らを置いて神様とあなたとの一対一でのお祈りをしなさい。これは宗教改革のたまものです。みなさんは万人祭司という言葉を聞いたことがあると思います。だれでもが信仰があるなら祭司といて神様に祈ることがという権利がお一人お一人にあります。決して当たり前のことではありません。万人祭司という信仰があってはじめてある権利です。神様と一対一のお祈りを大事にしたいものです。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:7,8は大変実用的な教えです。
異邦人とは当時のユダヤ人以外の人です。さしずめ外国人ということです。
お祈りになれていない異邦人は、思いつく言葉をいっぱい並べておいのりしました。
長いお祈りをすることによって人から立派なお祈りだと認めてもらいたいからです。心が神さまから離れてしまっています。
これはよくありません。
ご存じの方もいらっしゃると思います。
あの教団の年会を開催する場所、浅草橋教会の黒木安信先生、随分前に天にお帰りになりましたが、黒木安信先生が教えてくださりました。
自分の祈りを立派に見せようとしてはいけない。特に皆さんの前で祈るときは気を付けなさい。どうしても立派に見せようと、いろいろ言葉を並べます。クリスチャンの業界用語を知っている限りならべるような祈りは、心が神にあらずです。自分の評価にこころが奪われています。そうではなく皆さんの前で祈るときは無用な装飾は捨てなさい。神様に対する呼びかけと、感謝と、イエス様の名前でお祈りすればよいのです。30秒もかからずに祈れるはずです。祈りは短くても心が神様に向かったお祈りを心掛けなさい、と教えてくださいました。あなたのお祈りはどうですか?
神様は全知全能のお方です。あなたが心に思っていることは言葉に出さなくても神様はご存じです。さらにあなたが気が付かない事へも配慮してくださる神様です。自分がどう評価されるか、お祈りの途中で、気になりはじめるまえに、その祈りを切り上げなさい。
イエス様の御心です。ただし、このイエス様のおしえも心の在り方が大切です。
教会で皆さんの前でお祈りする場合、そのお祈りの背景を知らない方も大勢いらっしゃいます。神様の前でただしい心遣い、配慮としてむしろお祈りの背景をお知らせしながらのお祈りは必要です。大切なのはお祈りの言葉の数でも、お祈りの長短でもありません、すべてあなたの心が神様に向かっていることです。
では、どう祈ると良いか実際に、具体的におしえてください、という質問が起きますね。
それが次回の主の祈りです。イエス様がそれではこのように祈りなさいと言う理想的なお祈りを教えてくださいました。次週はそれを分かち合いましょう。
(お祈りします)
10月3日礼拝メッセージ
聖書箇所マタイ5:38-48
中心聖句マタイ5:44「 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
メッセージ題「復讐せずに互いに愛し合いなさい」
サブ ローマの信徒への手紙12:19「復讐するは我にあり」の本当の意味
◆復讐してはならない
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
◆敵を愛しなさい
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
メッセージ本文
皆さんも「『目には目を、歯には歯を』という言葉を聞いたことがあると思います。
数年前「倍返し」という流行語もはやりました。ドラマのせりふですね。
みなさんは復讐について、あるいは仕返しについてどうお考えですか?
「やったら、やりかえせ」いやむしろ「やられるまえに、やってしまえ」というのが現実だけど、やっぱりクリスチャンはまずいかな、それじゃあ、という感じですか?
さて聖書にはなんて書いてあるでしょう。今日の聖書箇所は、まさにそれです。
イエス様はこう言います。あくまでも山上の説教ですよ。聞いている方々は選ばれた信仰者です。あなた方がイエス様に苦労をいとわずに山上までついていきました。そのような信仰を現実に表した方々が選ばれたのです。そのことを忘れずに山上の説教は読み解く必要があります。
そのようなあなた方の考えはどうですか?
まずは、もう一度、聖書を見てみましょう。(今日の聖書個所を朗読する)
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
この聖句は有名ですね。
小学生の雄二君は、この通りに学校で実践して、尽きることのない弱い者いじめにあい、すっかり信仰をなくしましたし、学校さえ転向しました。ついには日本を離れてアメリカのシアトルまで移り住んだのです。
この聖句は彼に限らず、どのクリスチャンもつまずきかねない言葉です。
ではまず聖書にはどのような記述があるか、旧約聖書から見てみましょう。
出エジプトには
出エジプト記
9:5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
「目には目を歯には歯を」を裏づけするような言葉です。
さてこの「目には目を歯には歯を」という考えですが、もともとは世界最古の法律といわれるハムラビ法典からきた考えだと言われています。
その趣旨は、被害にあったと同程度の罰を相手に与えるということで、等価主義、けっしてそれ以上の罰や損害賠償をもとめてはいけないという趣旨です。そしてハムラビ法典はいざ知らず、聖書は「わたし」というのは主なる神様ですから、加害者に罰や損害賠償を求めるのは神様です。特に「生命」は血と聖書は語っています。なので人の命を奪い、それを償えるのは加害者の命だけだ、けっして動物を生贄に捧げても無駄だとも言っていますね。人の命は神様の霊的な息吹が吹き込まれています。創世記を確認してください。
イエス様の十字架で流された血によって私たちの罪はあがなわれたということの元にはこの神さまの血に対する取り扱いがあります。
さて本題にもどります。
こうしてみると、「目には目を歯には歯を」は聖書に裏付けされています。しかしそれを執行するのは神様であって人ではありません。そしてこれは神様とノアの契約の場面の言葉です。「目には目を歯には歯を」は神様と人との契約なのです。それも最初のころの契約です。十戒のずっと前です。
これは繰り返しますが、必要以上の処罰や賠償の禁止で、それも神様が執行するものです。
しかしローマであったように、どんなに些細な悪事でも、濡れ衣さえ、ライオンの餌にして、喰われる人の泣き叫ぶ声や姿を円形競技場で楽しんだ時代があります。ローマで何人ものクリスチャンが、ライオンに食われました。
ライオンに人を喰わせて楽しむと言う娯楽がローマ帝国にはありました。「目には目を歯には歯を」という言葉をまげて解釈して、そのような理不尽なことにならないようにしたのが「目には目を歯には歯を」の意味です。しかし現実にはローマの例だけでなく、エルサレムでもあったのです。特に宗教のリーダーであるファリサイ派の人たちが、「目には目を歯には歯を」と聖書に書いてあるからと正統性を変え高に叫びながら、行き過ぎた処罰で些細なことでも人の命を奪うようになったのです。
それを命がけで修正しようとしたのがイエスさまでした。律法は正しかった。しかしそれをファリサイ派や律法学者が自己中心の考えから、まげて理解し運用してしまった。だから本当はこうですよとイエス様が説いて回ったのです。
山上の説教で語られることごとの底にながれるイエス様の思いは何か?
山上の説教を見てみよう
マタイ5:9
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
人から害を加えられたとき、「目には目を」とばかりに危害を加えるのが人間です。
しかし報復や復讐からは憎しみしか生まれない。それよりも平和を実現する者となりなさい。
9月26日主日礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイによる福音書5章33~37節
「天にも、地も誓っていはならない」
◆誓ってはならない
5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
中心聖句5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
挨拶
祈り
メッセージ
山上の説教は、5章21節以降、実際の信仰生活における道しるべをイエス様はおしえてくださっています。
イエス様は生命を私たちの罪を贖うために十字架に架り死んでくださいました。
そして私たちはこの事を信じれば罪が赦されます。
教会では何度も大切なことなので語られます。そして主に従いなさいと言われます。
しかし私たちは戸惑うのです。イエス様を信じました。洗礼も受けました。人生を信仰に捧げます。御心に叶った信仰生活を送ります。しかし実際、どのようにすれば良いのですか?どのように生きれば御心に叶うのですか?主に従うってどう従えば良いのですか?
予想される答えを実は私たちは知っています。聖書を読みなさい。しかし聖書66巻全て読み終えても、なかなか具体的にわからないという人が多いのです。
はっきり言います。今、毎週聴いている山上の説教こそ、イエス様が信仰する心のあり方を具体的な例を挙げて教えてくださっているのです。
人を実際に殺さなくても心の内に呪ってはいけない。言葉に出さなくても人を馬鹿にして侮ってはいけない。浮気をするような結婚生活ではいけない。自分の身勝手な振る舞いや思いで結婚も離婚もいけない。今までの山上の説教を振り返れば、そういう事ですよね。
底に流れる共通したことは何でしょうか。自己中心からではなく、真実の愛、嘘偽りのない心からきよい思い、信仰に支えられてあなたは誠実に生きられるのだから、そのように生きなさいとイエス様は教えてくださっています。だから山上の説教に描かれた一つ一つの説教を自分の生活の仕方、日々の心の在り方に応用してあてはめてみましょう。人から言われたのではなくて、自分自身であてください。人は人それぞれの人生があって、生きる環境も違う。万人が一律に箇条書きで示すことができる生き方や人生はありません。山上の説教をおひとりおひとりの違う自分の人生があります。自分の人性に山上の説教を適応しないといけません。山上の説教で示される心の在り方に、管理の仕方を学びなさいと言っているのがわかります。例えば、結婚して浮気をしてはいけないという姦淫はいけないという話は結婚していなければ関係ないというわけではありませんね。姦淫をするような心にある欲望に支配される生き方の否定です。心に住む罪、悪魔、それに気をつけなさい。そういう説教です。そしてあなたが自分を見つめ、そのような自分の罪の心に気がつくとき、自然と謙るようになります。偉そうに人を見下して生きられなくなります。
山上の説教を誠実な生き方という尺度で自分にあてはめたとき主に従うという生き方が見えてきます。
ちょっと自分を見つめて黙想しましょう。1分だけ。
さて、今日は私たちの生き方の「真実」についてイエス様は語っています。
振り返ってみますと、自分は子供のころから友達や両親などに随分誓って、そしてほぼすべてその誓いを破ってきたのではないでしょうか。「嘘ついたら針千本飲まそう」とか言い合って、でも約束は結構無いに等しかった。さらに約束が破られても私は一度も針を友人に飲まそうとはこれっぽっちも思わなかった。家でも同じ。母が夕食のとき「宿題やった?」と聞かれたら「食べたらやるよ」と言って、たいがいテレビに夢中でぜんぜんやらなかった。もう一度、厳しく言われてはじめて「宿題はなんだっけな?」と考えたほどです。
政治家は、その嘘の影響力が子供の嘘とは天と地ほどに違う。だからといって選挙の公約が守られた覚えがない。私は結婚してないけれど、結婚するときは相手にも自分にたいしても永遠の愛を誓うのではないでしょうか。「あなたを永遠に愛します」ともうひとつは自分に対して「この愛を永遠にまもるぞ」とか。どうでしょうか?かなりの確率で守られていないのではないでしょうか。つまり人は約束、誓いを守れないことが多いのです。
イエス様はそのような人の弱さを言ったのでしょう。それだけではありません。当時の社会を支配したファリサイ派の人達や律法学者は平然と律法の前に誓い、そして破りました。
マタイ5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
とイエス様は言います。これは旧約聖書のレビ記にこう書かれているからです。
19:12 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
民数記には、民数記30:3 人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
とも書いてあります。だから誓いや約束は守らなければならないと律法に照らし合わせても言えます。そういうはずですが、律法に詳しいファリサイ派や律法学者は、自分に都合の良いように解釈しました。
例えばこうです。もう一度引用します。
レビ記19:12 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
ファリサイ派や律法学者は聖書の知識を悪用して、だから神様の名前を出さずに誓えばよい。そして守るつもりのない誓いや約束を平気でしました。
民数記30:3 人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
ということは、神様以外に誓えば、約束は守らなくて良いのだ。
まさにエゴ、自己中心のエゴを聖書の知識を用いて行っていたのです。
神様は真実な方です。イエス様は十字架で死んで三日目に蘇ると約束されました。その実現不可能とさえ思えることを実行し、神様の真実と約束を守る姿勢を私たちに示されました。
何もファリサイ派や律法学者だけではありません。イエス様の一番弟子を見てください。
ペトロです。
新約聖書のイエス様が十字架につくときのことを思い出してください。
まずはイエス様が捉えられて大祭司の前で裁判を受けるシーンです。
マルコから見てみましょう。
◆ペトロ、イエスを知らないと言う
14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
まあ、自分がイエス様同様に捕まらないようにうそにうそをかさね、さらに呪いの言葉もはくのです。これが人間です。
しかしペトロが知らないと言うこのシーンの前に、イエス様が弟子たちにこれから起こることを、十字架刑と復活を知らせます。その時のことです。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
イエス様の弟子たちはさんざんイエス様の奇跡の業、神の御子である証しを体験したはずです。しかしこのざまです。
今日の聖書箇所に戻ります。
5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
神さまに対して誓ったらまもらないといけない。それなら地面ならいいかな。いや地面よりエルサレムの大王に誓った誓いなら破ってもいいだろう、というような思いで約束や誓いをするなら、誓わない方がよほど神様の御心にかなっている。もし誓うと言うなら、本当に聖書にあるように必ず実行しなさい。でも、あなたは本当に誓ったことを実行できますか?
お正月に、今年こそは毎日日記をつけるぞと誓った思い出はありませんか?そして三日坊主だったことを。第一、三日坊主という諺は、人の誓いのむなしさを言っていますね。
私たちは、できもしないのに誓います。だからイエス様は続けます。
マタイ5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
クリスチャンはイエス様の証し人です。福音を伝える者、イエス様の真実を証しするものが誓いをいつも破るものであったらどうでしょうか?
クリスチャンにとって誓いとは、また約束とは道徳的に守りなさいということではなく、イエス様の証し人として深く自分を見つめないといけません。神様との約束を破ることは、罪です。そして私たちは神様に誓ってと思いながら、また言いながら結果として破ります。
福音を伝える者は、むやみに誓ってはならないのです。ただただ正直になるように努めなさい。それが最後の節
5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
聖書は
「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない」(申命記6章12節)。と言っている。
またイエス様は山上の説教で
マタイ5章17,18節で「わたしが来たのは律法や預言書を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」とイエス様ご自身が語っておられるように、律法の一点一画でも決してすたれることはないのだから、イエス様が誓いの律法そのものを廃棄されてしまうことはないということ。
だから今日の御言葉は誓ってはならないという結論にはなりません。神様は律法で神様に誓いなさいといっているのだから。
時々、この箇所を「誓ってはならない」とだけ表面上だけで捉える方がいますが、それは問題ですね。
イエス様自身が神の誓いに応答するシーンがあります。
マタイ26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」
しっかり神の名の下でのやりとりで再臨を約束されるのです。
あのパウロも(ローマ9章1節)。「私があなたがたに書いていることは、神の御前で申しますが、偽りはありません」(ガラテヤ1章20節)。パウロは「キリストにあって」「神の御前で」と語っています。
だから今日の聖書箇所は、「信仰者は神様が、イエス様の言葉があなたの日ごろの嘘の多い行いで汚されないようにしなさい」という御心です。
わたしたちにとってどういうことか。
それは教会が、またキリストの信仰者がオウム真理教のような悪魔によって「宗教は怖いもの」から脱却するために今日の御言葉を大切にしましょう。むずかしいけど、やっぱりクリスチャンは正直でないとね。正直で真実に生きようとすれば、不倫もないし、自己中心の離婚も自分からはしない。家庭内暴力などの離婚は自己中心の離婚ではないですよ。念のため。
そしてはっきり言います。今日の話を、山上の説教を真剣に受け止めれば、先週より今週、そしてこれからの人生、あなたは人から信頼され愛される人になります。信仰が有れば必ず神様があなたを育てて、家族も周囲も変えてくださいます。
お祈りいたします。(以上)
9月19日礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイによる福音書5章27~32節
聖書題「心の罪、本能の罪」
今日は、かなり自分自身の身近な問題なのではないでしょか?
未婚でも既婚者でも関心があるともいます。
聖書には姦淫をどう扱っているか?
またむしろ結婚について夫婦の関係は、聖書にどのようなメッセージがあるか?
どのような律法を私たちにくださっているか?
そういう視点で神様のメッセージをおとり継ぎしたいと思います。
説教題は「心の罪、本能の罪です」
善悪の知識などはなく、私たちの心の管理の仕方で、同じ知識が悪にも善にもなることを以前お知らせしました。詐欺師が巧妙な詐欺の知識を得れば悪用するでしょう。そのような知識は悪の知識と言えます。しかし詐欺師の知識で、それを用いて身を守ったり、あるいは警察に通報して詐欺師逮捕につながるのなら良い知識と言えます。先日のニュースで高齢者を狙った詐欺師から「オレオレ詐欺」の電話を受けた高齢者が、偽の自分の息子の名前を言い、詐欺師の手口を逆手に取って警察に通報し、詐欺師の逮捕に繋げました。このようにオレオレ詐欺の知識をどう用いたかによって、その知識の善悪がきまります。これが心の管理と私が言うことです。
さて今回は姦淫です。結婚以外の正しい男女の交わりではないことのお話です。
浮気をした男性が「浮気は男の甲斐性だ」とか「多くの女性と交わるのは男の本能だからしかたがない」という話があります。たしかに本能でしょうが、この言い訳はどうでしょうか?食欲をたとえにとりましょう。食欲は欲望の一つです。欲望はいけないことだからと、ひとくくりにだめだとしたら、人は食事をとらずに絶滅します。欲望がいけないのではなくて、その管理の仕方です。食べないと死ぬ、から食用は良い、ともいえません。食べすぎは良くないからです。食欲をどうコントロールするか、それが問題です。男女の問題、結婚の不倫の問題もそうです。異性を求める欲望がなければ、人類は死滅します。しかしだからといって人の異性を求める欲望を野放しにすれば神様がだめだという姦淫の罪に陥ります。
心をどう管理するかが、本能からでる行為を良いことにも悪いことにも変えるのです。
つまり本能の罪は、心の管理の良しあしに決まります。そしてこのことは人間だから問題になるのです。動物なら問題になりません。ライオンはオス同士が争い、勝ったオスが群れのリーダーになり、多くのメスと交わります。しかしここに不倫という考えは起きないでしょう。
ライオンは本能のままにいきても罪はないのです。しかし神様は動物とは違う、より尊い心を持つ人間を創造されました。人間だからこそ、不倫のような心の問題が生じるのです。
先回、ヨハネによる福音書で姦淫の女をイエス様がどう裁くかを取り上げました。イエス様を陥れるためにイエス様の前に姦淫した女つれてこられました。イエス様に反抗する者たち、つまりファリサイ派の人たちがイエス様に質問します。「この姦淫した女をあなたはどうさばくのか?」日頃説く愛によって罪がないというのか?それとも律法によって定められた通り殺しのか?そこでイエス様はお答えになった「罪のない者から石をまげなさい」つまり「石を投げてころしなさい」と言ったのです。しかし誰一人石を投げれませんでした。だれでも罪を犯したことがあるからです。行動に現れた罪を裁くのが普通です。日本の法律がそうです。しかし心の中に思う罪は行動に移さない限り裁かれません。裁かれないと言っても、心に思うだけで神様から見れば罪です。そしてその罪を私たちは犯します。だからだれでも罪人なのです。
聖書で「姦淫」罪をわざわざとりあげる一つの理由は姦淫がいけないことだ。ということです。そして大切なのは姦淫の罪の教えを通して「人は誰でも罪人であることを思い知りなさい」ということです。そしてさらに大事なことは身近な問題として夫婦の問題を神様はどう私たちに教えているかと言うことです。姦淫はだめだ、というひとことで今日のメッセージはおえようとすれば終えることができます。しかし身近な夫婦の問題として今日はとりあげましょう。
姦淫とは今のことばにすれば不倫です。決して本能の問題ではなく、心の問題です。特に私たちクリスチャンは神様に従うという信仰の問題です。不倫に刑事罰はありません。不倫そのもので日本では警察に捕まることはないのです。しかし神様が人に与えた恵みとしての法律、それを律法と言いますが、その視点で見ると明らかに罪であり、罰せられることです。神様の罰はなになにしたから罰するというような行い、行為に対する罰というより、そのような悪いことをすると人生が台無しになる、心を清く保てばあなたの人生は祝福されるというような人を愛するがゆえに与えられたものが本来の律法です。
さて前置きはこのくらいにして聖書を開きましょう。
マタイによる福音書5章27節。
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
では出エジプト記20章や申命記5章に書き記された神様のくださった十戒を見てみましょう。
申命記では5:18 姦淫してはならない。これは出エジプト記20章の十戒でも同じです。
これも実際に姦淫したら罰するというのではなく、姦淫という事実がおこらないように心を止めなさいという神様の命令です。こう考えるとわかりやすいかもしれません。
男女の恋人たちのカップルがお買い物に街に出てきました。そのカップルの横をきれいな女性が通り過ぎました。男はそのきれいな女性を目で追います。ほんの瞬間でも目で追えば、となりの女性が「どこみてんのよ、最低ね」とあざけりのことばを男に浴びせます。男が実際に不倫しなくても、男の心の動きを見て、言葉の平手打ちをくらわしたわけです。
神様もあなたの心の内を見て平手打ちをくらわすわけです。いやそうならないように律法で禁止するわけです。律法は罰するためにありません。
さきほどの申命記の十戒には
5:10 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
律法は守るものに恵み、いつくしみをあたえるためにあると神様は言っています。
マタイによる福音書5章28節
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
神様は心の在り方を厳しくいさめます。あなたがすばらしい人生を送るためです。
ここに神の律法は正しさを証明するのではなくて、道標を提供してくれます。
マタイ5:17
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
人がきよく、そして幸せに生きることを完成させるためにい神様はルールを与えたのです。
だから詩編にも
詩編119:105
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」
ルカ3章
3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
3:5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
と書いています。
いずれも神のことばは、人の歩くべき正しい道のみちしるべであり、足元を照らす灯なのです。
あなたが正しい道をいけば、家族が、そしてみんなが幸せになれるのです。
どうしてですか?という質問が来そうですね。
ここに人生の失敗談があります。
東京の教会にいたときクリスチャンの女性が大学教授に不倫しました。その大学教授が死に、そのあとその不倫が発覚して、大変な騒動になりました。私も相談を受けました。
しかしながら問題はこじれてその女性も、大学教授の一家も不幸になりました。
クリスチャンだから大丈夫、ではなくクリスチャンだからこそ神様の示す道を歩かないと不幸になります。
聖書では、一人の信仰が家族全体を救うとあります。その逆に一人が神さまの示す道からはずれるとその人も家族も不幸になるのです。
使徒言行録
16:29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、
16:30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
16:32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
これは本来信仰の話ですが、あなたの信仰のあり方で家族が信仰を持ち、みんなが正しい道をあるけるというはなしとしても理解できます。
そして今、現実にわたしの前で起きた不幸は、クリスチャンの女性と大学教授の神の道を踏み外した不倫は本人たちのみでなく、一家の不幸につながりました。大学教授は死んだから関係ないではすみません。尊敬される父親から、軽蔑される父親になりさがって、死んでしまったから、もはや名誉も家族の信頼も失い、回復することはできないのです。
さらに今度は結婚という視点から聖書はどう扱っているかみてみましょう。
神様は男女を結婚で一つになさいました。支えあうパートナーです。
創世記のアダムとエバの誕生の話を思い出してください。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
イエス様も新約聖書でこう教えてくださりました。
マタイです。
19:3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
19:4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
19:6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
19:7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
19:8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
このように男女の結婚は神様の計らいなのです。たがいに助け合う夫婦として人を男女に創造されたのです。
ですから神さまの導きにより、そして御前で結婚の約束をして結婚した者は「私は救で結婚したの、嫌いになったから離婚するは」というような人だけの事柄ではないのです。
あなたの結婚は神様に依ってなされたのです。しかし離縁も現実にはあることを示す個所です。
それのような場合でも人が幸せにくらせるようにという御心からイエス様は教えています。
当時は離縁された理由がどうであれ、離縁は、つまり離婚は女性の死を意味しました。当時は収入がないからです。あるいは売春婦になるような罪の道しかないのです。創世記でもハガルという女性をとおして離縁されて死を覚悟したシーンがあります。しかし理由はどうであれ、ハガルの憐れな親子に神様は救いの手を差し伸べます。
離婚の話は次回、もう一度しますが、不倫が起こるのも、自己中心の結婚生活も、つまり不倫しつつ結婚をつづけることも、自己中心の動機や心で離婚してはいけない、それは不幸しか生まないからという御心なのです。だからあなたの心を管理しなさい。聖い心でいなさい。これが今日の姦淫の教えをとおして語られた神様の御心です。
もう一度言います。こころのきよさ、生き方の問題です。たとえば家庭内暴力で苦しんでいる妻が夫と離縁するのをとがめるために律法はありません。
あなたが結婚生活で結婚するにしても、離婚するにしても神様はあなたも家族も平安で幸せであるようにと望んでいます。
第一ココリントを見てみましょう。
1コリント
7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。
7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。
ここで聖書はクリスチャンとクリスチャンでない者との結婚を認めています。生まれてきた子供がきよいという御言葉をとおして、この夫婦がきよいと神様は認めています。
現代の教会によく起こる問題です。
夫婦の一方がクリスチャンで、もう一方が信仰の無い者結婚にあてはめられるでしょう。
そしてよく誤った言い伝えがまかり通っています。クリスチャン同士でないと結婚してはいけない。あきらかに聖書とは違いますね。
現実を見ましょう。よく教会の牧師は「クリスチャンはクリスチャンと結婚しないとだめだ」ということがあります。これは絶対にすべてのクリスチャンがまもれません。教会をみてください。
男のクリスチャンは何人いますか?女のクリスチャンは?
全然、まったく男女の数が違うのです。第一、聖書は第一コリントに書かれているようにクリスチャンとそうでない人の結婚を良しとしています。この聖書箇所は、あのパウロのユダヤ以外の国に伝道した異邦人伝道が背景です。キリスト教をしらない国での伝道です。旦那さんか奥さんかどちらかがまずクリスチャンになります。もう片方の配偶者はまだクリスチャンではりません。では離婚しなさい。これが神様の御心ならキリスト教は不幸になる教えです。しかし御心は夫婦の平安です。生まれて来たこどもは、クリスチャンと無心者との血をひきつぐのですから、汚れた子供ですか?そういう扱いを神様はよろこびますか?いや、神様は生まれてきた子供を祝福しますでしょう。つまり清いのです。これはコリントという外国での伝道、キリスト教の教会ができたから生じた歴史的事実です。その信仰者とそうでない人との結婚がコリントの教会で多数発生しました。その神様の扱いは、その結婚を認めるのです。なぜなら信仰によって無理に離婚する不幸を神様は喜ばないからです。
そして、しかしキリスト教を迫害したユダヤ教では信仰者と信仰の無い者の結婚は離婚させられました。これも歴史的事実です。私はユダヤ教ではなく、キリスト・イエスを信じるキリスト教徒なのではっきりいいます。聖書は信仰のある者と、無い者の結婚を認めています。ユダヤ教ではないのです。キリスト教は真の神を信じます、そして真の神はあなたの平安を造り、守る神様です。その真の神様は、最初に戻りますが、あなたの心を見ています。あなたの心が自己中心でない、きよいこころであることも求めています。
結婚問題、不倫、そのような家族の問題を考える時、ぜひ聖書を思い出してください。
あなたの具体的な問題はさまざまでしょう。それを聖書にそって解決を求めるなら、まず最初の一歩があなたの平安を神さまが望んでいること、そしてあなたが自己中心でないきよいこころからその問題ととりくむことを祈り求め、実践してください。
あなたの自己中心のこころが少しでもあるなら、男女の誘惑が心の管理のじゃまになるなら、なにをおいてもそれをばっさりすてなさい。
それがマタイにより福音書5章29節から30節です。
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
お祈りします(以上)
8月29日
聖書 マタイ5:17~20
◆律法について
5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
メッセージ
「わたしたちの義」
今月はずっと5章の山上の説教をメッセージしています。
山上の説教を聞く人達は山に登るという試練を経た人たちです。彼らは弟子を中心とした信仰深い人達なのです。マタイの4章を思い出してください。主イエスがガリラヤ地方で宣教を始められたシーンです。
「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」悔い改めとは、反省するというより神様の反対方向を向いていた者が心を入れ替えて神様の方に顔を向けて、神様の御そばに近づこうとする信仰を持つことです。
まさに山上の説教を聞く人たちです。
そしてそれは塩釜ともしびチャペルで礼拝をする人たち、あなたです。震災に遭い、無牧のの教会を守り、支えてきたあなたなのです。
当然、天国はあなたの住むべき場所です。神様は恵としてその信仰に対して八幅の天国の住人の祝福を与えました。それが神様の栄光として世の光としてあなたが光輝くかはあなたの祝福の恵み、八幅の管理次第です。どういうことかというと神様はあなたの心という畑に種を蒔きました。そして水をやり、肥料を与えるのはあなたです。悪い誘惑という雑草を引き抜くのも必要です。それが畑を管理することです。そして成長するのは神様の力によってです。難しくはありません。神様はありのままのあなたを愛してくださっています。その愛に応えてあなたは神様を信じて愛すれば良いだけです。そこに人間的なスキルはいらないのです。さて、畑に水をやり肥料を与えるとはどういうことでしよろうか。それは日々聖書を親しみ、祈り、自分のことのように人を愛して互いに支え合う生活を送るということです。
それがクリスチャンの正しい生き方、あなたの義なのです。
この正しい生き方こそ、実は旧約聖書の要、律法を行うことなのです。
律法とはモーセを通して与えられた「これを守ればあなた方は正しい人と神様に認められる」という恵み、プレゼントなのです。
ところが二千年前のユダヤの律法学者やパリサイ派などの宗教支配者たちは、自分たちが尊大ぶるために、あるいは人を見下すために本来ありがたい神様のプレゼントを誤って自己中心的に用いたのです。
今日の聖書箇所はそのあやまりの指定です。律法そのものは正しいのに、律法学者やパリサイ派の律法の使い方、管理の仕方がひどく間違っていたのです。
それでは聖書を開いてください。
マタイによる福音書5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
この文脈での律法は旧約聖書のモーセ五章と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記などの律法の書と呼ばれるもの、そして預言者とはイザヤ書、エレミヤ書など数多くの預言書のことですが、旧約聖書全体と捉えられる言い方です。つまり旧約聖書に書かれていることは間違っているから廃止するためにイエス様はこの世界にきたわけではなく、律法学者やパリサイ派などの支配者たちの律法の使い方をやめさせて、むしろ正しくするためだと言っているのです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」に続く18節で「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
で、全く律法や預言書に誤りはなく、神様の約束は必ず成就、つまり完成する。神様の約束も少しも訂正されることはなく、完璧な教えであるとイエス様は宣言されたのです。
19節では「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」
よく私たちはイエス様が律法を否定して新しい教えを私たちにくださったと、誤解することがあります。しかし、この聖書箇所を読むとそれは間違っているとわかります。
むしろ、そのようなイエス様が律法を否定するような教えや教師を否定しているのです。
そしてむしろ律法を守りなさい。守るように教えなさいと言っているのがわかります。
更に付け加えます。
律法学者やパリサイ派などの律法を自己中心の心を満足して使う人たちへの批判が20説です。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
山上の説教をイエス様の身近で聞くような人は試練に耐えるイエス様の弟子か、あるいは信仰深い人たちです。もうすでに八福の性質をいただく人であり、天国に住むような人たちです。しかし、その神様の祝福の上にあぐらを書くような真似をするな、クリスチャンとしての神様の栄光を輝かせるような生き方をしなさいとの教えです。でも、心配しないでください。
たとえ話をしましょう。
あるご夫婦がいます。奥様はいつも夫に怒られて、小言ばかり言われます。「これしとけと言ったのにしていないじゃないか」「あれもしていないじゃないか」というようにです。奥様はいつも怒られたくないばかりに夫の言うことをこなしています。そこには辛さしかありません。その夫から奥様はバカにされて離縁されました。時が経ち、その奥様は新しい夫と再婚しました。この新しい夫は優しくて、心から奥様を愛する人でした。すると奥様は嬉しくて夫の愛に応えるために、いつもどうしたら夫が喜ぶか、夫に良い食べ物や服やいろいろと考えて生活するようになりました。考えることも、それを実行することも楽しみになってきました。ふと思うと、以前の夫が「こうしろ、ああしろ」言われたことを全て完全にこなしていました。いや、、それ以上でした。それも以前はおこられたくないからでしたが、今は自分がしたいからであり、楽しさと喜びに溢れて、更に夫婦の愛情が増しているのを実感していました。これは例え話です。
以前の夫とは律法学者やパリサイ派のいう律法の下での生き方であり、新しい夫は、イエス様の教える正しい律法の下での生き方です。イエス様の教えに従うとは怒られるからでなく、イエス様の愛に応えた生き方と言い換えられるでしょう。
それはわたしたちのために十字架で命をわたしたちのために捧げてくださった愛に応える生き方です。今は緊急事態宣言で恐ろしい世の中ですが、イエス様にあって喜びに溢れた今週を過ごしましょう。
お祈りいたします。
9月12日
聖書 マタイによる福音書5章21~26節
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
説 教 「和解する者」
山上の説教を聞く人に与え有られた性質について前回までお話しました。
しかし、この性質は植物の種のようなものです。
あなたの心が畑であり、そしてあなたはその畑を管理する農民です。育ててくださるのは神様ですが、あなたは聖書を読んだり、祈ったり、教会に来たり、またお互いに助け合うことを実践し、経験すること、日々に伝道することが必要です。伝道もそうですか?という質問があるかもしれません。伝道はあなたの希望ではなくてイエス様の希望であり、命令です。ですからそれだけであなたが伝道する理由は十分です。しかしここでは、こういう理由です。伝道すると問答が始まります。イエス様のお話を信仰の無い方にお話しすると、質問や反論が来ます。それを経験すると、あなたは自発的に聖書を読み、自発的に予想される質問や反論に備えます。そこに祈りとともに黙想があなたの必要としてはじまります。まさにデボーションです。デボーションといわれれば、それがあなたの心の肥やしになるのがわかりますね。
そのように実行できる人があなたです。
さて、ここから今日のメッセージの本題になります。
神様はあなたに試練を与え、それをあなたは乗り越えた。神さまはそういうあなたを天国の住人として選ばれたのです。
そのように信仰の厚い人は、何においても神様が第一です。
しかしイエス様はそこでアドバイスします。信仰の方向に誤りがないようにです。
信仰に厚い人は礼拝を大事にします。いや、礼拝を一番大事なことにします。毎週日曜日にはかかさず礼拝にでます。そのようなあなたにイエス様はアドバイスをするのです。それも現実的なたとえ話でします。
聖書を読みましょう。
マタイによる福音書5章21節からです。
今日は三つのポイントでメッセージを取り次ぎます。
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
これは現代の法律でも、二千年前の律法でも同じです。人を殺したら、相応の罰を受けます。しかしイエス様は、ここであなたの心が神様の御心にかなっているかどうか?尋ねるように話を続けます。心の奥底の動機、何かするときの動機について教えるのです。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
出エジプト記20章に十戒が記されています。最初の律法で、また代表的な神様が与えて手ださったルールです。23節をみましょう。
20:13 殺してはならない。と書いてあります。
日本の刑法には人を殺したら罰せられる刑について書いてあります。しかし日本の法律には、どこにも「人を殺してはならない」とは書いていません。これはわりと有名な話ですね。律法はもともと殺人の事後について刑を与えるのではなく、神様が殺人の起こる前に殺してはならないと、思いとどまらせるように人に律法を与えました。
神様は「にくいから殺したい」などというような心の動機をいさめたのです。
それを心の動機ではなく、行動の結果を罰するように変えました。人は殺人を犯してから罰するように変えてしまったのです。
イエス様はそのような律法の精神、神様の御心にあうように再度、正したのです。
心のなかが問題であると考えなさい。そして殺すような罪深い考えはやめなさい。あってはならない。また人を馬鹿にするような心は、たとえ言葉にしなくても心に思うだけでいけないのです。まずなによりも心を清くしなさい。心を清くしようとしないで神の前に来るようでは、自己満足の偽の信仰にすぎない。と、イエス様はおっしゃるのです。
それが5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
と言うのです。
今日の第一のポイントは、このように心がきよらかになる種をあなたの心に神様はくださったのだから、それにふさわしいあなたの心という畑を管理しなさい、ということです。
第二のポイントは、まず参考にヨハネによる福音書8章を見てみましょう。
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
実際に姦淫の罪を犯したのは、この引き出された女でした。しかしイエス様の言葉、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」を聞いて誰もが心の中にある罪を知ったのです。
相手に罪があるとあなたは言うけれど、あなたも罪のある心を持った人です。
神様は心の動機、こころのきよさを大切にします。汚いこころで、なぜ他人を非難したり、馬鹿にできるのですか?これが第二のポイントです。
そして第三のポイントは山上の説教で既に5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。とイエス様は教えてくださいました。
この教えを守ろうという信仰があるなら、あなたは心の内でさえ人を罵ったり、殺したりできないはずです。むしろ嫌な人と思っていても、その人のために祈り、その相手と和解しようとこころの底から思うはずです。
ここであなた自身と置き換えてみましょう。両親とはうまくいってますか?兄弟や友達とはどうですか?会社や学校ではどうですか?
あなたは、嫌な相手のために祈るなんて、とてもそれはできませんと言うかもしれない。しかしイエス様はどうでしょうか。イエス様にはそれができます。
信仰により罪から救われたあなたは聖霊が与えられて、あなたの心ももイエス様の心となります。そのために神様があなたに聖霊を与えて下しました。あなたにできなくても、できるように聖霊が与えられたのです。イエス様とおなじきよい心になります。信じて感謝しましょう。
最後に、山上の説教をぜひあなたの日常に活かしてください。聖書の御言葉はあなたの日常に活かされる生きた言葉だからです。
お祈りします。
9月